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「弓聖」阿波研造 『日本の弓術』 オイゲン・ヘリゲル

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無術の術に至る道

 剣道・柔道・華道・茶道・書道‥。日本にあるこれらの「道」。道を究めた達人がいて、その達人について道を究めようと修行に励む。その道を1ミリも歩いたことがないへなちょこなわたしですが、あこがれはします。わたしはその道を歩めませんが、その道を究めんとする描写は好きです。

夏のさかりに熊本を訪れ少年たちと剣道の稽古をしたのち、全身にしたたる汗のまま、正坐をして、先輩格の少年が、はりさけるような声で、

「神ぜえーん」

と号令をかけ、神前に礼をしたときのさわやかさは忘れがたい。それは暑熱の布地を一気に引き裂くような涼しさだった。私は作法というものが、どんなに若者を美しくするか、それに比べて、作法のない世界に住んでいる若者たちは、どんなに魅力がないか、という実例を見る気がした。

 「剣道」の描写です。文章自体に緊張感が漂う三島由紀夫!。約百万人といわれている剣道人口の頂点、最上位は八段だそうです。現在約600人だそうです。剣道人口のわずか0.06%。

 八段の達人って強いのか?いつも疑問に思います。茶道や華道は年齢関係なさそうですが、剣道や柔道、合気道などは身体が動かなくなるんじゃないかと。勝負して勝てるのか、と。その精神性をことさら重視した、いわゆるアンタッチャブルな領域だと正直思っていました。また、それを感じることのできる本にもまだ出会ってない。

 しかし、とうとう見つけました。オイゲン・ヘリゲル(ドイツの哲学者)が書いた『日本の弓術』という本です。これほど描きにくい「道」の正体を、外国の方がたくみに描いていることに驚きました。

阿波研造とは?

阿波研造(あわ けんぞう、1880年-1939年)は、日本の弓術家。弓聖と称えられる。術(テクニック)としての弓を否定し、道(精神修養)としての弓を探求する宗教的な素養が強かった。目をほとんど閉じた状態で弓を絞ると的が自分に近づいてきてやがて一体化する。そこで矢を放つと「狙わずにあてる」ことが可能になるというのである。

 wikiより。阿波さんの心技体も凄いですが、その様子を表すオイゲンの筆力も負けず劣らず凄い。この『日本の弓術』をダイジェストで紹介します。

 オイゲンは阿波さんに弟子入りを志願しますが断られます。阿波さん、昔外国の方を弟子にして嫌な思いをしたとのこと。そこを粘り何とか弟子にしてもらいます。

 最初の一言。

無術の道に至る道は容易ではない。弓術はスポーツではない。したがってこれで筋肉を発達させるなどということのためにあるものではない。あなたは弓を腕の力で引いてはいけない。心で引くこと、つまり筋肉をすっかり弛めて力を抜いて引くことを学ばなければならない。

 稽古を繰り返しますが、力を使わずに引くことなどできません。地道に稽古を重ね、一年後、とうとう力を入れずに引くことができるようになりました。

 次の問題は射放つときの衝撃です。阿波さんは射放つときの衝撃がまるでありません。苦悩するオイゲンに、阿波さんはこう言います。

あなたがそんな立派な意志をもっていることが、かえってあなたの第一の誤りになっている。あなたは頃合いよしと感じるかあるいは考える時に、矢を射放とうと思う。あなたは意志をもって右手を開く。つまりその際あなたは意識的である。あなたは無心になることを、矢がひとりでに離れるまで待っていることを、学ばなければならない。

 いやいや、「意識的に矢を放たないと矢は放たれない」とオイゲンが言うと、

待たなければならないと言ったのは、誤解を招く言い方であった。本当を言えば、あなたは全然なにごとをも、待っても考えても感じても欲してもいけないのである。術のない術とは、完全に無我となり、我を没することである。あなたがまったく無になる、ということが、ひとりでに起これば、その時あなたは正しい射方ができるようになる。

と阿波さんは答えます。合理的なドイツ人気質のオイゲンは引き下がりません。さらに質問します。「無になったら、誰が射るの?」と。

 すると、

あなたの代わりにだれが射るかが分かるようになったなら、あなたにはもう師匠が要らなくなる。経験してからでなければ理解のできないことを、言葉でどのように説明すべきだろうか。仏陀が射るのだと言おうか。この場合、どんな知恵や口真似も、あなたにとって何の役に立とう。それよりむしろ精神を集中して、自分をまず外から内へ向け、その内をも次第に視野から失うことをお習いなさい。

ここからまた長い稽古が始まります。長い長い稽古。苦しむオイゲンに、

あなたは無心になろうと努めている。つまりあなたは故意に無心なのである。それではこれ以上進むはずがない。

 納得できないことはすぐ聞くオイゲン。「無心になるつもりにならなければ無心にはなれないでしょう」と返します。言葉を失う阿波さん。途方にくれます。

 ここまで三年経過。あきらめたオイゲンはインチキをします。無心にやっているように見え、なおかつ的をうまく射抜ける技の習得です。インチキとは言いすぎかな?阿波さんから教わろうとした精神統一の修練をあきらめたことは確かです。

 この技を阿波さんに見せました。もしかしたら、褒めてもらえるんじゃないか、と期待して。 

 すると、

先生は一言もなく歩み寄って、私の手から静かに弓を取り、それを片隅に置いた。先生は無言のまま座布団に座り、周りにだれもいないように、ぼんやりと前方をみていた。私はそれがどんな意味であるかがわかって、立ち去った。翌日私は、自分が先生の裏をかこうとして深く先生を傷つけたのだということを聞いた。

 見る人が見ればわかるようです。オイゲンの射方に相当阿波さんは落ち込みました。オイゲンは何度も謝り、もう一度「無術の道」に戻ります。そしてさらに一年経過。少しずつできるようになりました。その様子はこちら。

どのようにして正しい射方をするかと問われれば、私は知らないとしか答えることができない。自分は少しも手を加えず、またそれがどうなるのか見守ることもできないが、矢はすでに放たれているのであった。

 できるようにはなっているが口で説明ができない、ということのようです。

 そして、オイゲンは阿波さんから最後の課題を与えられます。六十メートル離れた的を射ることです。「的はどうでもいいから、これまでと同様に射なさい」という阿波さんに、オイゲンは「中てるとなれば狙わないわけにはいかない」と言います。

 すると、先生は、

その狙うというのがいけない。的のことも、中てることも、その他どんなことも考えてはならない。弓を引いて、矢が離れるまで待っていなさい。他のことはすべて成るがままにしておくのです。

と言い、自ら矢を射って再びオイゲンに

私のやり方をよく視ていましたか。仏陀が瞑想にふけっている絵にあるように、私が目をほとんど閉じていたのを、あなたは見ましたか。私は的が次第にぼやけて見えるほど目を閉じる。すると的は私の方へ近づいて来るように思われる。そうしてそれは私と一体になる。これは心を深く凝らさなければ達せられないことである。的が私と一体になるならば、それは私が仏陀と一体になることを意味する。そして私が仏陀と一体になれば、矢は有と非有の不動の中心に、したがってまた的の中心に在ることになる。矢が中心に在る。これをわれわれの目覚めた意識をもって解釈すれば、矢は中心から出て中心に入るのである。それゆえあなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい。すると、あなたはあなた自身と仏陀と的とを同時に射当てます。

と助言します。茫然とするオイゲン。そして阿波さんは、

あてようと気を揉んではいけない。それでは精神的に射ることをいつまで経っても学ぶことができない。あれこれと試してみて、なるべく多数の矢が少なくとも的の枠の中に来るようにする弓の持ち方を考えだすのはたやすいことである。あなたがもしそんな技巧家になるつもりなら、私というこの精神的な弓術の先生は、必要がなくなるでしょう。

とオイゲンを戒めます。ここから先は十年、二十年とかかる道です。最後の一歩まできましたが…。心が折れかかるオイゲン。そこで先生は、自分のとっておきの射方を彼に見せます。それこそ信じられない神業を。そして「あなたにもできる」という言葉をかけます。

 ここから、オイゲンは奮闘します。こんな感じです。

私は疑うことも問うことも思いわずらうこともきっぱりと諦めた。その果てがどうなるかなどとは頭をなやまさず、まじめに稽古を続けた。夢遊病者のように確実に的を射中てるほど無心になるところまで、生きているうちに行けるかどうかということさえ、もう気にかけなかった。それはもはや私の手中にあるのではないことを知ったのである。

 そして、

矢を射るとき自分の周りにどんなことが起ころうと、少しも気に懸らなくなった。私が射る時に二つの目が、あるいはそれ以上の目が私を見ているかどうかということは頭に入らなかった。のみならず先生が褒めるか貶すかということさえ、私に次第に刺激を与えなくなった。実に、射られるということがどんな意味か、私は今こそ知ったのである。

 最後の試験に合格し、阿波さんから免許状と弓を贈られました。

 また、長く書きすぎました。ここまで読んだなら、もう本を買った方が早いです。短編です。わずか17ページです。