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難民を助けるためにお金を出す人はほとんどいない 『功利主義入門』児玉聡

「目の前に困っている人がいたら可能な範囲で助けるが、アフリカの難民が二百万人と聞いてもなにもしない」

これ、本当のことだそうです。

 「ホテルルワンダ」という内戦の渦中にあるルワンダを描いた映画があります。主人公のポールは、高級ホテルの副支配人であり、ホテルを開放することで一人でも多くの人を虐殺の危険から逃れさせようと苦心しています。

 あるとき彼は、ルワンダの惨状を撮影に来た海外メディアのスタッフの一人に感謝して、「虐殺の現場を撮影してくれたことに感謝しています。世界の人々がこのニュース映像を見るでしょう。これこそ、人々に助けに来てもらうための唯一の方法なのです」と伝えます。   

 すると、そのスタッフは気の毒そうな顔をして、次のように答えます。

「おそらく人々はこのニュース映像を見て、『おお神よ、なんてひどいことが起きているのだ』と言うだろうね。そして、また夕ご飯を食べ始めるのさ」

と。 

 推計によれば、世界中で約14億人の人が一日1ドル未満の絶対的貧困状態で暮らしていると言います。そして、そのことは多くの人が知っているのに事態はちっとも変わらない、とも。

 なぜでしょう。わたしは「誰かが搾取している」と考えていました。 

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が、違うようです。募金が集まらないらしいのです。

 わたしは、まとまった金額をアフリカに送ったこともなければ、その方法も知りませんし、その方法を調べたこともなければ、調べようと思ったこともありません。

「一人なら助けるが、群衆を見てもわたしは決して助けようとしない」

 これは、ノーベル平和賞を受賞したマザーテレサの言葉です。わたしの言葉だったら誰も驚きませんが、彼女の言葉なら少しは驚かれる方もいるでしょう。

 この言葉が本当かどうか検証した学者さんがいます。オレゴン大学のポール・スロヴィックさんです。論文のタイトルは、『群衆を見てもわたしは決して助けようとしない-心理的麻痺と虐殺』2007年です。

 スロヴェックは、大学生を対象にこんな研究を行いました。

 学生たちを三つのグループに分け、アフリカで飢餓に苦しむ子どもに対して、5ドル以内でいくら寄付するかを聞く。

 グループ1には、アフリカで飢餓に苦しむ「ロキア」という名の7歳の少女の詳しい説明と写真を見せ、いくら寄付するかを聞く。

 グループ2には、アフリカ諸国で飢餓に苦しむ何百万人もの子どもたちについての統計的事実を示し、いくら寄付するかを聞く。

 グループ3には、グループ1に見せたロキアの説明と写真に加え、グループ2に示した統計的事実を添え、いくら寄付するかを聞く。

 つまり、グループ1には特定の個人の人命を救うためにいくら寄付するか聞き、グループ2には統計上の人命を救うためにいくら寄付する気があるかを聞き、グループ3には特定個人の人命と統計上の人命の両方について同じ質問をしたわけです。どのグループの学生が、もっとも多くの金額を提示したのか…

 この結果、グループ1が一番多く、グループ3が二番、グループ3が最低額となりました。

 この研究を例にあげ、著者の児玉さんは、

つまり、統計上の不特定多数の人命と、特定の人の命であれば、わたしたちは特定の命を救うことにより共感を覚えるし、場合によってはより大きな援助を行うかもしれないのだ。

と言います。なるほど。

 24時間テレビには一円も募金したことがないわたしですが、過去に一度だけ明確な意思をもって募金したことがあります。しかも、「1000円」というそこそこな金額です。今から20年前の阪神大震災のときです。わたしの学生仲間の一人の実家が神戸にあり、被災しました。幸い彼の実家に大きな損害はなかったのですが、彼の周囲では多くの方が被害にあわれたと聞き、大学キャンパスで行われていた募金活動に協力しました。学生時代、極貧状態のわたしにとって、1000円の価値は相当なものでした。

 功利主義的にいうと、肉親1人より他人5人を助けることが正解だそうですが、実際はそうなっておらず、また、そうなることがより大きな文脈の中で考えると正解なのかどうかはわからない、とのことです。災害時に医師が患者をぱっと見て色の違うカードをはるといいます。助かる患者と助からない患者を選別するためです。これは「功利主義」に適う行動ですが、平時に行えることではありません。また、道徳的というか倫理的に従えないところでもあります。

 この道徳的、倫理的感情と功利主義のはざまにあって、悩みながら価値を見出していくことが必要とのことです。 

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