読書生活 think it over

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『終わらざる夏 上』浅田次郎

 1945年、夏。すでに沖縄は陥落し、本土決戦用の大規模な動員計画に、国民は疲弊していた。東京の出版社に勤める翻訳書編集者・片桐直哉は45歳の兵役年限直前に赤紙を受け取る。何も分からぬまま、同じく召集された医師の菊池、歴戦の軍曹・鬼熊と、片岡は北の地へ向かった。終戦直後の「知られざる戦い」を舞台に「戦争」の理不尽さを描く歴史的対策、待望の文庫化。第64回毎日出版社文化賞受賞作。

 上・中・下の三部作です。「上」は読み終わりました。今、「中」を読んでいます。

 三人の人物を軸に話が進みます。

 一人目は、翻訳編集者・片岡直哉。45歳直前に召集されます。岩手出身で、苦学して東京外大に進み、現在は出版社で働いています。ヘンリーミラーの訳書を出すことが夢です。妻の久子、息子の譲の三人暮らしでしたが、息子の譲は長野に疎開させています。アメリカ兵との通訳として召集されました。

 二人目は、岩手医専を卒業後、帝大に進んだ優秀な医師の菊池忠彦。背が低く痩せており、軍人としての活躍は期待できそうにありません。軍医として召集されました。

 三人目は富永熊男。すでに軍人として戦地に赴き、大きな体を生かし立派に戦った男です。右手の親指と人差し指、そして中指の3本と引き替えに勲章をもらって名誉の帰国となりました。車の運転ができるということで再召集されました。

 この見た目も性格も大きく違う3人がおもむいた場所が占守島(シュムシュ島)です。千島列島の最北端で、当時の日本とソ連の国境の島です。

  みなさん、千島列島とはどこにあるかご存知ですか。

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 この黄色の部分が当時の日本の領土でした。 

 長さ約1200キロメートル。 豊富な水産資源があり、日本にとっては重要な国土でした。でした、というのは、みなさんご存じの通り今は日本の領土ではありません。

 北方四島問題はよく知られています。しかし、その四島は千島列島の最南端のごく限られた島なのです。

 この黄色部分の一番北にあるのが占守島です。この島で、終戦直後大きな戦いが起きたことはあまり知られていません。まだ、この段階(上)では戦いが始まるのかどうかすらわからない状況です。

 わたし自身、この島での戦闘についてほとんど知りません。

 この『終わらざる夏 上』で、わたしがもっとも胸に入った部分を引用します。

 この3人の一人、菊池忠彦の台詞です。この菊池は岩手医専を出て帝大の医学部に来た優秀な医師です。当時は地方の医専学校を出た医師は地方で働きます。そして、戦地に軍医として動員されます。しかし、官立大学(帝大)の医学部生や卒業生は別でした。動員がかからないのです。帝大の医学部では医学者を作る、軍医は町医者で十分だ、という意識が軍や国にあったからです。しかし、この菊池は、岩手医専がどうしても動員されてはならない重要な人間だ、戦争に行かせたくない人間だとして、帝大の医学部に編入させたのです。

 しかし、菊池のところにも赤紙が来ました。医専を卒業しているという理由のようです。菊池は怒ります。自分が動員されたことに対してではありません。その理由が深いのです。

 「岩手医専の現状はさんさんたるものです。たぶん全国の医専はみな同じだと思いますけれど。卒業を半年繰り上げて医師免許を取得させ、片っ端から軍隊に引っ張っているのです。私も同様ですが、臨床経験などはほとんどないに等しい、静脈一つ取るにしたところで看護婦よりもへたくそな若い医者です。岩手県下の病院や、僻村の診療所に勤務する医師たちも、根こそぎ動員されています。面積が広くて、ただでさえ医療のいきわたらぬ岩手県は、今や無医村だらけになっているのです。医専は、将来の地域医療を保持するために、他県の官立大学の本科に卒業生を避難させています。私もその一人なのです。しかし、軍隊は迫ってきます。帝大本科の学生にはちがいないが、すでに医専を卒業して医師免許を持っているという理由で、私にだけ令状が来ました。これを偏見だと思いませんか」

 片岡はこの医師に突然襲いかかった嵐について、深く考えねばならなかった。

 赤紙来着の電報を受け取ったとたん、岩手医専の誠実な企ては水の泡となったのだ。菊池はまんじりともせぬまま夜を明かし、帝大医学部へと走ったのだろう。そしてたぶん、ひどくいやな思いを味わった。

 「そもそも官立大学医学部と医専の併存には矛盾があります。つまり帝大で医学者を養成し、医専では町医者を作るという明治以来の政策が、昭和の今も続いているのです。帝大医学部の学生がとりわけ優秀であるとは思えません。しかし、彼らはいまだ医師免許を所持していないという理由で、軍隊にはとられない。私だけがすでに医師であるから、動員されてしまうのです。教授も友人たちもみな、おめでとうと言いました。私は素直に受け取れなかった。おめでとうではなくって、ざまあみろ、としか聞こえなかったのです。医専出の町医者が、背伸びをして帝大にきたところで宿命から逃れられるものか、ざまあみろ、と彼らが嘲笑っているようにしか見えなかった。つまり明治以来、国はこう規定しているのです。医学者は国の宝だが、町医者は消耗品である、と」

 煙草をくゆらせながら、安藤(菊池の大先輩です)は黙って菊池の毒を吐くような訴えを聞いていた。

「君にひとつ尋問しておきたいのだが」

怜悧な口調は洒落には聞こえなかった。

「もし戦がすんで、今のこの場所に戻ってくるとしたら、君は明日からどうするね」

菊池はにべもなく答えた。

「盛岡に帰ります」

その毅然たる表情に、片岡は衝撃を受けた。

「君こそお国の宝だと思うが」

「お国の宝は馬鹿がなればいと思います。そう解釈すれば、国家の定めた偏見も正当と言えますから」

「言ってることがよくわからんな。つまりまことの国の宝は、国民の病を癒やす町医者だということかな」

「いんや、先生。そうではねのす」

いましめがほどけたように、菊池の物言いが訛った。幼げな表情までが、傲岸な南部人のそれに変わったように見えた。

「まことのお国の宝は、国民であんす。そのかけがえのねえお宝を守るのが、医者の務めでありあんすがら、明治の先人たちは偏見とも思える医者の配分をしたに違えねのす。国民の命が国の宝だと知ったればこそ、新渡戸稲造先生も原敬さんも、知れ切った往生をされあんした。すたけァわしは必ず盛岡さ帰って、百姓の脈こを取らせていただきあんす」

 言いながら菊池は、女のように華奢な右手の指を三本、脈を取るかたちにかざした。左手は宝物を押し戴くように添えられた。

 この男は本物の天才かもしれぬ、と片岡は思った。知恵が言葉になっているのではなく、心が天然の声となる天才だ。だから虚飾はかけらもない。

 単なる戦争モノではない、という印象をもちました。読み終わり次第「中」の感想を書かせていただきます。