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『月のしずく』浅田次郎

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 三十年近くコンビナートの荷役をし、酒を飲むだけが楽しみ。そんな男のもとに、十五夜の晩、偶然、転がり込んだ美しい女……。出会うはずのない二人が出会ったとき、今にも壊れそうに軋みながらも、癒しのドラマが始まる。表題作ほか、子供のころ、男と逃げた母親との再会を描く「ピエタ」など全七編の短編集。

 

 表題作の「月のしずく」もおもしろいですが、「聖夜の肖像」がとびきりです。すごくいい!一文でいうと、

「夫や子どもより過去の男を愛していた女性が、聖夜のある出来事によって、過去の男を乗り越えて家族を心から愛するようになる話」

と言えるかなあ。

 主人公は43歳の久子です。二人の子どもと優しい夫がいます。裕福でどこから見ても幸せな久子ですが、悲しく忘れられない過去があります。留学先のフランスで、久子は恋に落ちた相手が忘れらないのです。相手の名前は「小野純一郎」。総理大臣みたいな名前ですが、そこはあまり気にせず読み進めましょう。久子はこの人のことがずっと好き。夫は優しくしてくれる。子どももかわいい。でも彼が好き。言わなくてもいいのに、久子は言うんですよ。このことを夫に言うんです。

「愛してないのよ。こんな贅沢させてもらって、かわいい子どもを二人も生ませてもらって、あのおかあさんの面倒までみてもらって、それでもあなたのこと、愛してないのよ。今でもあの人のこと、大好きなのよ」

  20年前、留学先のフランスで久子は純一郎と恋に落ち、子どもを身ごもります。それを知り激怒する両親。両親は久子を連れ戻しにフランスに行き、純一郎に話をつけ、久子を日本に連れ戻そうとします。両親を説得できないまま、フランス最後の日、久子は両親を純一郎の仕事場であるテルトル広場に連れていきます。彼の真摯な仕事ぶりを見て貰えば、もしかしたら両親の気持ちも変わるかもしれない、そう思って。

 テルトル広場に純一郎の姿はありませんでした。顔見知りの美術学生が久子を呼び止めます。久子が来ることがあったら渡してほしい、とあずかっているものがあるとのこと。それは一枚の肖像画でした。久子23歳の誕生日のプレゼントに、純一郎が描いてくれた久子の肖像画でした。

 その肖像画を持って久子は帰国します。その後一切連絡なし。一度久子から手紙を出したことがありますが、返事は来ず消息はしれません。そして、半ば自暴自棄になって今の夫と結婚を決めたその夜、久子はその肖像画を燃やします。

 それから20年。聖夜の夜に夫は久子を表参道に連れ出します。そこには、一列に店開きをしている多くの画家がいます。「描いてもらえよ」「やめてよ」。迷った末にサンプルを見渡し一番上手だと思った画家を久子は選びました。

「似顔絵二千円。五分で描きます」

 汚れた軍手をはずして丸椅子の上の朽葉を払い、男は手を止めた。おそるおそる見上げたおもざしに見覚えがあった。

 齢をとっていた。とうてい45歳には見えぬほどに老け込んでしまってはいたが、まちがいはなかった。

 純一郎だったわけです。久子は絵を描いてもらいながら、心の中で純一郎に一生懸命話しかけます。

 ここがいい。

あの人と結婚しようとしたとき、あなたの思い出を焼きました。あの一枚の肖像画を取り戻せるのなら、私は迷わずにすべてを捨てることができる。富も、名誉も、親も、子供らも、もちろんあの人さえも。ひどい話だけど、それが本音です。

 もっとずっと長い台詞が続きます。この時点では、久子はまだ純一郎のことが好きです。

 紹介すらうまくできない、ぜひ読んでもらいたいです。久子みたいな人、たくさんいることでしょう。浅田さんは天才だと思います。