読書生活 

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読書とは何かを知るためにはこの本しかない。これまでもこれからも。 『読書について』ショーペンハウアー

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 現代詩作家、荒川洋治さんの言葉です。「読書とは何かを知るためにはこの本しかない。これまでもこれからも」。この本を荒川さんはこのように熱くすすめています。これ以上の誉め言葉を私は知りません。読んでみました。

 ショーペンハウアーさんはドイツの哲学者です。この本は、今から約200年ほど前に書かれました。

 名言ばかりです。

 自分の頭で考えずに鵜呑みにした膨大な知識より、量はずっと少なくともじっくり考え抜いた知識の方がはるかに価値がある。なぜなら、自分の頭で考えた知識だけが、完全に自分のものであり、自分の意のままにできるからだ。

 学者とは、書物を読破した人のことだ。だが、思想家、天才、人類の進歩をうながす人とは、世界という書物を直接読者した人のことだ。

 とにかく考えろ、ということでしょうか。

 さんざん苦労して、時間をかけて自分の頭で考えた真理と洞察にたどりついたのに、ある本を見たら、それが完璧な形でさらりと書かれていた、そんなこともあるかもしれない。

 だが、自分の頭で考えて手に入れた真理と洞察には、その百倍の値打ちがある。自分の頭で考えて手に入れた真理と洞察は、私たちの思想体系全体に組み込まれ、しっかり根を下ろし、二度と消えることはないからだ。

 こういうこと、よくあります。私はこういうときがっかりしません。独自でたどり着いたと喜びます。この言葉、よくわかります。

 習得しただけの知識は、私たちに張り付いているに過ぎない。だが、自分で考えて獲得した真理は生まれながらに備わっている四肢に等しい。それだけが本当に私たちの血となり肉となる。

 もう少し詳しく書きます。前者は整形で得た作り物の鼻や目、もしくは化粧で手に入れたものであり、すぐになくなるようなものだと。後者こそ本物だと。

 人生を読書に費やし本から知識を汲み取った人は、たくさんの旅行案内書を眺めて、その土地に詳しくなった人のようなものだ。これに対し人生を考えることに費やした人は、その土地に実際に住んでいたことがある人のようなものだ。

 本ではない、知識ではない、考えろ!としつこいくらいに言います。読書はやめろ、と言われているようで悲しくなってきました。続けます。

 考えることは難しい。いつでも好きなときにできるようなものではない。あちらが来てくれるのをじっと待たなければならない。無理せずじっくり待つ。

 待つ間、それぞれ異なった角度からその問題に光を投げかける。熟成されることで、前に見過ごしていたものに気付くし、物事がはっきり見えてくる。

 答えが出るには時間がかかる、そういうものです。はい。熟成、わかります。

 優れた頭脳の持ち主でさえ、いつでも、自分の頭で考えることができるわけではない。そこで思索以外の時間を読書にあてるのが得策だ。読書は精神に材料を供給する。

 なるほど。熟成時間を読書ですごせ、と。ただ漠然と読むな。いつ降ってくるかわからないから油断するな。私はそう感じました。

 議論の余地ある問題に権威ある説を引用して、躍起になって決着をつけようとする人々は、自分の理解力や洞察の代わりに、他人のものを動員できるとなると、心底喜ぶ。彼らにはそもそも理解力や洞察が欠けている。

 考えが今頭の中にあるということは、恋人が目の前にいるようなものだ。私たちはこの思索を忘れることなど決してない。だが「去る者は日々に疎し」だ。どんなに素晴らしい考えも書きとめておかないと忘れてしまい、取り返しがつかなくなる危険がある。

 とにかく考えろ!事案なり事象なり問いなりを常に頭に入れておけ!閃きは降ってくるからその尻尾をすぐに掴めるように準備しておけ!です。

 内田樹が言ってました。

 「自分の意見」を聞かれても大抵の人は答えられない。尖閣問題にしても竹島問題にしても。どこかの新聞の社説に書かれていたことやひいきの知識人の持論をそのまま引き写しにするくらいのことならできるでしょうが、自分の意見は言えない。なぜなら「そういうこと」を自分自身の問題として考えたこともなく、「そういう難しいこと」は誰か偉い人や頭のいい人が自分の代わりに考えてくれるはずだから、もし意見を聞かれたらそれらの意見の中から気に入ったものを採用すればいい、そう思っている。

 と。ああ、私のことだ。また考えずに読んでいる。そして、知識を習得し悦に入っている。「think it over」いつも念頭に置いているのに。