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追い詰められたぎりぎりのところでも踏みとどまれるかどうかは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうかで決まる 『悲鳴をあげる身体』鷲田清一

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 褒めてのびるタイプです、って自分で言う人いるでしょう。みんなそうです。みんな。

 鷲田さんのこの本、名言がつまっています。ちなみに、哲学者で大阪大学の元学長という偉い方です。

 人には肯定される経験が必要だと言います。肯定される経験とは何か。大抵の人は、家庭でその経験をすると。例えばこぼしたミルクを拭ってもらい、弁で汚れた肛門をふいてもらい、額やわきの下、指や脚のあいだを丹念に洗ってもらう、こういう経験です。

 言うことを聞いたから、とか、おりこうさんにしたらとかいった理由や条件なしに、自分がただここにいるという、ただそういう理由だけで世話をしてもらう、これが大切なのだと。

 「何らかの見返りを求めることなく、その人間の世話をする」この経験を、わたしは子育てで行いました。

 今までを振り返ると、大抵の人間関係でわたしは相手に見返りを求めてきました。

 恋愛関係はもちろんです。「あの人が振り向いてくれるなら」その一心で接しました。彼女が今何を考えているか、彼女が何を飲みたがっているか、彼女が何て言って欲しがっているか…。友人関係も同様に、突き詰めれば見返りを求めていた気がします。  

 ところが、子育ては違いましたね。よく、「この子が助かるなら何でもします」という赤子を抱いた母親のせりふ、ありますよね。あれは本当です。

 「存在の世話」を、いかなる条件や留保もつけずにしてもらった経験が、将来自分がどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの〈信頼〉を失わないでいさせてくれる。そういう人生への肯定感情がなければ、ひとは苦しみが堆積する中で、最終的に、死なないでいる理由をもちえないだろうと思われる。

 あるいは、生きることのプライドを、追い詰められたぎりぎりのところでももてるかどうかは、じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうか、わたしがわたしであるというだけでぜんぶ認められ世話されたことがあるかどうかにかかっていると言い換えてもいい。その経験があれば、母がじぶんを産んでしばらくして死んでも耐えられる。こういう経験がないと、一生どこかで欠乏感をもってしか生きられない。あるいは、じぶんが親や他人にとって邪魔な存在ではないのかという疑いをいつも払拭できない。つまり、じぶんを、存在する価値のあるものとして認めることが最後のところでできないのである。

 逆に、こういう経験があれば、他人もまたじぶんと同じ存在すべきものとして尊敬できるようになる、といいます。わかる、よくわかります。