読書生活 

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句読点を打つ場所 句読点の打ち方

 いつも文章を書くとき悩みます。どこに点をうったらいいのかな、と。うまい方法を調べてみましたが、決定打にかけます。

 近現代文学専攻の石原さんは、

点は文節ごとにうつものではなく、意味のまとまりごとにうつものだ。

と言います(『大学生のための論文執筆法』)。

 また、英文学専攻の外山さんは、「句読点には文法的なはたらきと修辞的なはたらきの二つがある。文法的とは論理と意味にかかわることであり、修辞的とは文章の調子にかかわるものである」とし、それぞれを例をあげて説明しています(『おしゃべりの思想』)。

 まず、文法的なはたらきについてです。

「彼は、涙を流して再開を喜ぶ友人の手をにぎった」

「彼は涙を流して、再開を喜ぶ友人の手をにぎった」

 ここでは、点の位置ひとつで、涙を流しているのが「彼」なのか「友人」なのか違ってきます。これはわかります。私も気をつけています。

 もう一つの修辞的なはたらきについてです。

「私は、朝、7時に起きて、8時に家を出た」

「私は朝7時に起きて、8時に家を出た」

 外山さんによれば、上より下の方がよかろうとのことです。

 石原さん、外山さんのお二人に共通するのは、句読点はとても難しいということと、多すぎるのも少なすぎるのもよくないが、多すぎる人の方が多いので(多いが多くてわかりづらいですね)、なるべく減らすようにしましょう、ということでした。

 『おしゃべりの思想』では、句読点に関する興味深いうんちくがありましたので、紹介します。

 日本語ではもともと、まともな文章には、テンやマルをつけなかった。毛筆で書く手紙にはいまでもつけないのが普通である。印刷された案内やあいさつ状も、筆で書いたと同じように改まったものなら、句読点をつけないでよいわけだ。つけない方が正式になる。

 なるほど。確かに竜馬の書簡などの毛筆のものに、句読点はありませんね。また、戦前までは、公式の表現でも句読点は使われていません。戦後、句読点が使われるようになりました。これも、私が言っているわけではなくて、外山さんが言ってることです。

 もう一つ、?なことがあります。会話文の最後のマルです。学校では、マルと「」は同じマスに入れる、と教わりました。

「おなかが減った。肉まんを食べよう。」

この。」です。これを原稿用紙の同じマスに入れろ、と習いました。しかし、しかしですよ、どの本を見ても、会話文の最後のマルがそもそもないのです。

「おなかが減った。肉まんを食べよう

となっているのです。わかりますか?マル、なくてもいいのかな?わかる方、教えてください。 

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