読書生活 

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「君が代」が国歌になるまで 『司馬遼太郎の考えたこと 4』司馬遼太郎

 内田樹さんの本で、このような記述を見ました(『日本辺境論』)。

 国家は儀礼上必要欠くべからざるものです。「君が代」の歌詞も古歌のうちからなかなかよいものを選択したと思っています。旋律についてはどうしてこんな旋律になったのか経緯を教えてもらえば、「なるほど、そういうものか」と納得します。

 問題は「国家としてはどのような歌が望ましいのか」という問いを日本国民が自分に向けていないということです。制定の過程で一度だけはそういう問いを立てたかもしれないけれど、そのような問いがありうることを一度限りできれいさっぱり忘れてしまった。そのような問いについて考え抜き~

 「どうして『君が代』が国歌になったのかをしっかり考えろ」と言います。「『法律で決まっているから』ではだめだ」と。どこかで読んだぞ、と本棚を漁りました。ありました!

 その前に、ウィキで調べてみました。まとめると、

 歌詞は10世紀初めに編纂された『古今和歌集』の短歌の一つで、曲は1880年(明治13年)に付けられた。1999年(平成11年)に「国旗及び国家に関する法律」で正式に日本の国歌として法制化された。

 とあります。詳しく見ると、

 『古今和歌集』中の1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。

 江戸時代には、性を含意した「君が代は千代にやちよにさゞれ石の岩ほと成りて苔のむすまで」(「岩」が男性器、「ほと」が女性器を、「成りて」が性交を指す])に変形されて、おめでたい歌として使われた。

 おめでたい歌として、というところがいいですね。少しエッチな替え歌まで作られたとのことです。大奥でも歌われていたといいます。

 1869年(明治2年)に設立された(薩摩藩軍楽隊)の隊員に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長フェントンが国歌を設けるべきと進言し、それを受けた薩摩藩軍楽隊隊員の依頼を、当時の薩摩藩歩兵隊長である大山弥助(後の大山巌、日本陸軍元帥)が受け、大山の愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」より歌詞が採用された。

 簡単に言うと、イギリス人に「国歌はないの?」と聞かれた大山が、自分の好きなこの歌をすすめた、ということです。

 ところが、「本当は違う」と司馬さんが言っています。詳しくは『司馬遼太郎の考えたこと 4』に出ています。

 フェントンさんに聞かれたところまでは同じなのですが、「大山が受けた」というところが違う、と言います。

 司馬さんによると、フェントンは大山に言ったのではなく、接待役の「原田宗助」という人に言ったらしいです。そんなこと言われても一介の役人である原田は困ります。

 そこで、

 彼はあわてて上司にきくべく、会議中であった藩の川村純義(すみよし)を呼び出すと、川村は急に怒り出し、

「歌ぐらいのことで相談するな、万事をまかすということでお前たちを接待役にしたのではないか」

と怒鳴って会議に戻ってしまった。

 川村はのちの海軍卿になった人です。大山出てきません。続けます。

 原田宗助は青くなっただろう。戻って同役に相談した。この同役が乙骨太郎乙(おつこつたろういつ)である。

 乙骨太郎乙(おつこつたろういつ)すごい名前です。すぐ覚えました。大山出てきません。続けます。

 乙骨は旧幕臣だけに大奥のしきたりを多少知っており、こういうのはどうか、と言い、歌詞を口ずさんでみた。原田は大いに驚き、「その歌詞ならわしの国の琵琶歌の中にもある」と賛成し、フェントンを呼び、原田自らそれを琵琶歌のふしでうたってみせた。フェントンはこの奇態なふしまわしに驚いたらしいが、手直しをした。

 原田が乙骨に聞き、それをフェントンに歌って聞かせ、フェントンが手直しして完成した、というのです。大山出てきません。

 司馬自身も、(ウィキにあるように)大山説が通説となっていると言っています。でも、モトのモトは前述の話らしい、と。

 司馬さんは、この原田と乙骨説をあげ、この歌がきっちり作られたわけではなく、

・部下が上司に一喝されて生まれた歌であるところ

・もともと徳川大奥の儀式を乙骨が思い出して提案した歌なのに、「君が代起源説」の通説は徳川を倒した官軍の大山説となっているところ

 これが不思議で暗示的だ、と言っています。そうですよね。百年後、大きな話題になり法律で定められることになるとは、大山さんはもちろん、原田さんも乙骨さんも予想していなかったことでしょう。

 ちなみに、冒頭の内田樹さんは、この歌の旋律について「どうしてこんな旋律になったのか経緯を教えてもらえば『なるほど、そういうものか』と納得します」と言っていますが、実際にフェントンに歌って聞かせた原田さんは、フェントンが作った君が代を聞いて「おれのうたったふしとはだいぶちがっている」と言ったとのこと。内田さんは、この旋律の経緯をどこで誰に聞いたのでしょう。

 わたしは情報に受け身でして、こういう話を読んでも、「乙骨太郎乙乙骨太郎乙」と念仏のように唱えて喜ぶ程度で終わります。このような情報を耳にしたとき、きっとクリエイティブな人は、「今は、何の疑問もなく普及しているけれど、中には将来その目的や方法が根本から問い返さざるをえないモノがあるのじゃないか」と考えるのでしょう。

 何だろうなあ、きっとこういうところにビジネスチャンスがあるのでしょうが、ちっとも思い浮かばない。情報には敏感なつもりですが、基本受け身的なところがだめです。ウィンドウズ95の時に、死ぬほど勉強してネットビジネスをものにできていればよかったのに。宅配業界の大改革、これはどうでしょう。だめか。