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秀吉が将軍にならなかったのはなぜ?「この国のかたち 一」司馬遼太郎

 

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  小学生の頃から疑問に思っていました。

「秀吉は天下統一を果たしたのに、どうして将軍にならなかったのか」

 信長は、天下統一目前で明智光秀に殺されたから将軍にはなれなかった(と、小学生の私は思っていました)。でも、秀吉はなぜ?

 小学校の先生は、

「関白の方が将軍より偉かったからだよ」

と答えてくれました。

 あまり深く考えず月日が流れ、あれから30年。本作で司馬さんはこう述べています。

 

信長はある時期から平氏を公称した。当時の慣例として、征夷大将軍になって幕府を開くことができるのは、源氏に限られる。ただし、鎌倉幕府の先例では、執権は平氏(北条家)ということもある。初期の信長が、衰弱した室町将軍家を擁して執権たろうとしたために、平氏を公称したのだろう。

 

 ようは、源氏じゃないと、将軍になれず、信長は源氏じゃないから将軍になれなかったとのこと。なるほど。信長も将軍になりたかったわけですね。「ある時期から平氏を公称した」とありますが、源氏を公称したらよかったのに。きっと、これができないルールがあるのでしょうけど。

  秀吉は源氏の出ではないだろうと想像はつきます。うっすらした記憶をたよりに本棚を漁ったら、似たような記述を発見しました。「功名が辻」の2巻です。これも司馬さんです。

 

秀吉は、最初、源頼朝足利尊氏の先例に倣い、征夷大将軍を望んだ。が、これは歴史的に源氏の家系の者が任ぜられる職で、先例主義の宮中では任じようとしても任ずることができない。

 

 秀吉も将軍になりたかったけど、想像通り源氏の出ではなかったのでなれなかったということです。同様に源氏の出ではなかった信長は、平氏を名乗りましたが、秀吉は違ったようです。続きです。

 

中国の毛利家に亡命して落魄の身を養っている前将軍足利義昭に使者を走らせ、その養子になり源氏の姓を冒そうとした。が気位の高いこの没落貴族は自分の家系を売ることをこばんだ。 

 

 信長と違って源氏姓を名乗ろうとしたわけです。でも、養子になろうとして断られます。悲しいぞ、秀吉。そして、こうなります。続きです。

 

それを見かねたのが、かねて秀吉に取り入っていた公卿の菊亭晴季である。「関白という手がござる」と、菊亭晴季がいった。なるほど官位からいえば関白は征夷大将軍より上である。が、関白は公卿の最高の家格である五摂家でなければその職につけない慣例がある。秀吉は、前関白近衛前久の猶子にしてもらい、ようやく関白になった。

 

 将軍になれず落ち込む秀吉に、関白はいかがですか?と声をかけた菊亭さん。近衛さんの猶子にしてもらい、関白になったとのこと。

「猶子」という言葉の意味が分からなかったので、wikiを見てみます。

 

猶子(ゆうし)とは、兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度[1]。漢文訓読では「なほ子のごとし」(訳:あたかも実子のようである)という意味。

中国における本義は兄弟の子の意味。養子との違いは、家督や財産などの相続を必ずしも目的の第一義とはせず、実力や「徳」に優れた仮親の権勢を借りたり、一家・同族内の結束を強化するために行われた。具体的には、官位などの昇進上の便宜、婚姻上の便宜、他の氏族との関係強化が図られる場合に組まれるようである。そのため、子供の姓は変わらない場合があったり、単なる後見人としての関係であるなど、養子縁組と比べて単純かつ緩やかで擬制的な側面が大きい。

  よって、秀吉が将軍にならなかったのはなぜかというと、

  • 源氏じゃなければ将軍になれず、秀吉は源氏の出ではない。
  • 源氏の姓が欲しくて足利義昭に養子にしてくれと頼んだが、断られた。
  • 関白を勧められ、近衛さんの猶子にしてもらい、関白になった。

ということでした。これが正解なのかは怪しいですが、ずいぶん近づいているはずだと思います。どうなんでしょう。

 

 ところで、家康はどうなんでしょう。「司馬遼太郎が考えたこと 2」にありました。

家康は偉くなってから、「おれは源氏の嫡流だ」とか「新田義貞の子孫だ」とかいって家門に箔をつけたが、そういう家ではない。家康から数代前といえば、三河松平郷の村長といった程度の家で、血統もあいまいなものであった。この点は、のちに「平家の血流である」といっていた織田信長の家系にしても似たようなものである。

 続けます。

家康の数代前、北国のほうをうろうろしていた乞食坊主が松平郷にやってきた。当時はこういう無銭旅行者がうようよいて、祈祷などもする。だから、田舎の豪族などはよろこんで泊めてやるのである。

その男も、松平郷の松平家に長逗留していたが、やがて当家の後家さんとできてしまって子が生まれた。その子が家康の祖である。家康はえらくなってから家門を飾るために「じつはその乞食坊主が新田義貞の子孫であり、従ってわが家は源氏の名門になる」などというようになった。  

なんだ、そりゃ、という感じですね。だったら、信長は源氏を名乗ったらよかったのに。