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なぜ、有吉さんやマツコさんは炎上しないのか?

 ネットで炎上する有名人が多いようです。古くは、テレビ番組「逃走中」で自首し賞金を手にしたドランクドラゴンの鈴木さん。最近は、不倫をすっぱ抜かれて政界進出を断念した乙武さんなどなど。

 しかしながら、世間には毒舌でありながらあまり炎上しない有名人もいます。たとえば、有吉さんやマツコさんです。なぜ彼らは炎上しないのでしょう。

 社会学者の古市さんはこう言っています。

彼らが炎上しない最大の理由は、「うらやましくない」からだ。

と。古市さんによると、有吉さんは猿岩石として一世を風靡した後、不遇の時代が長く、一時期は自殺を考えたことまである。また、マツコさんは、遅咲きのブレイクであることに加えてあの体形ゆえに、世の人が「うらやましい」と思わないのだろう、と。だから、炎上しないのではないか、と。

 そして、

 その意味でいえば、乙武さんの炎上は画期的です。あれほど嫉妬の対象になった障害者はこれまで聞いたことがありません。みんな、乙武さんがうらやましかったのかあ。

と述べます。

 ん、待てよ。ドランクの鈴木さんは「うらやましい」ですか?どうでしょう。私は彼のこと好きですが、うらやましくはないですね。同様に、有吉さんやマツコさんも好きですが、「うらやましくない」から炎上しないというのは違うと思います。

 有吉さんやマツコさんが炎上しないのは、「うらやましさ」ではなく、話術かな、と。「毒舌」を売りにしながらも、相手の怒りを笑いに変える見事な話術だと思います。

 彼らの発言に怒った相手も、会場が爆笑に包まれたらそれは結果的には成功であり、感謝こそすれ怒りにはならないでしょう。視聴者の中には怒っている人もいるかもしれません。しかし、有吉さんやマツコさんが毎日のようにテレビに出ている事実こそが、視聴者に彼らが受け入れられている証拠だと思います。

どこに点をうてばいいの?

 いつも文章を書くとき悩みます。どこに点をうったらいいのかな、と。うまい方法を調べてみましたが、決定打にかけます。

 近現代文学専攻の石原さんは、

点は文節ごとにうつものではなく、意味のまとまりごとにうつものだ。

と言います(『大学生のための論文執筆法』)。

 また、英文学専攻の外山さんは、「句読点には文法的なはたらきと修辞的なはたらきの二つがある。文法的とは論理と意味にかかわることであり、修辞的とは文章の調子にかかわるものである」とし、それぞれを例をあげて説明しています(『おしゃべりの思想』)。

 まず、文法的なはたらきについてです。

「彼は、涙を流して再開を喜ぶ友人の手をにぎった」

「彼は涙を流して、再開を喜ぶ友人の手をにぎった」

 ここでは、点の位置ひとつで、涙を流しているのが「彼」なのか「友人」なのか違ってきます。これはわかります。私も気をつけています。

 もう一つの修辞的なはたらきについてです。

「私は、朝、7時に起きて、8時に家を出た」

「私は朝7時に起きて、8時に家を出た」

 外山さんによれば、上より下の方がよかろうとのことです。

 石原さん、外山さんのお二人に共通するのは、句読点はとても難しいということと、多すぎるのも少なすぎるのもよくないが、多すぎる人の方が多いので(多いが多くてわかりづらいですね)、なるべく減らすようにしましょう、ということでした。

 『おしゃべりの思想』では、句読点に関する興味深いうんちくがありましたので、紹介します。

 日本語ではもともと、まともな文章には、テンやマルをつけなかった。毛筆で書く手紙にはいまでもつけないのが普通である。印刷された案内やあいさつ状も、筆で書いたと同じように改まったものなら、句読点をつけないでよいわけだ。つけない方が正式になる。

 なるほど。確かに竜馬の書簡などの毛筆のものに、句読点はありませんね。また、戦前までは、公式の表現でも句読点は使われていません。戦後、句読点が使われるようになりました。これも、私が言っているわけではなくて、外山さんが言ってることです。

 もう一つ、?なことがあります。会話文の最後のマルです。学校では、マルと「」は同じマスに入れる、と教わりました。

「おなかが減った。肉まんを食べよう。」

この。」です。これを原稿用紙の同じマスに入れろ、と習いました。しかし、しかしですよ、どの本を見ても、会話文の最後のマルがそもそもないのです。

「おなかが減った。肉まんを食べよう

となっているのです。わかりますか?マル、なくてもいいのかな?わかる方、教えてください。

「君が代」が国歌になるまで 

 内田樹さんの本で、このような記述を見ました(『日本辺境論』)。

 国家は儀礼上必要欠くべからざるものです。「君が代」の歌詞も古歌のうちからなかなかよいものを選択したと思っています。旋律についてはどうしてこんな旋律になったのか経緯を教えてもらえば、「なるほど、そういうものか」と納得します。

 問題は「国家としてはどのような歌が望ましいのか」という問いを日本国民が自分に向けていないということです。制定の過程で一度だけはそういう問いを立てたかもしれないけれど、そのような問いがありうることを一度限りできれいさっぱり忘れてしまった。そのような問いについて考え抜き~

 「どうして「君が代」が国歌になったのかをしっかり考えろ」と言います。「法律で決まっているから」ではだめだ、と。どこかで読んだぞ、と本棚を漁りました。ありました!

 その前に、ウィキで調べてみました。まとめると、

 歌詞は10世紀初めに編纂された『古今和歌集』の短歌の一つで、曲は1880年(明治13年)に付けられた。1999年(平成11年)に「国旗及び国家に関する法律」で正式に日本の国歌として法制化された。

 とあります。詳しく見ると、

 『古今和歌集』中の1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。

 江戸時代には、性を含意した「君が代は千代にやちよにさゞれ石の岩ほと成りて苔のむすまで」(「岩」が男性器、「ほと」が女性器を、「成りて」が性交を指す])に変形されて、おめでたい歌として使われた。

 おめでたい歌として、というところがいいですね。少しエッチな替え歌まで作られたとのことです。大奥でも歌われていたといいます。

 1869年(明治2年)に設立された(薩摩藩軍楽隊)の隊員に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長フェントンが国歌を設けるべきと進言し、それを受けた薩摩藩軍楽隊隊員の依頼を、当時の薩摩藩歩兵隊長である大山弥助(後の大山巌日本陸軍元帥)が受け、大山の愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」より歌詞が採用された。

 簡単に言うと、イギリス人に「国家はないの?」と聞かれた大山が、自分の好きなこの歌をすすめた、ということです。

 ところが、「本当は違う」と司馬さんが言っています。毎日新聞の夕刊に書いていたようです(昭和49年)。詳しくは「司馬遼太郎の考えたこと 4」に出ています。

 フェントンさんに聞かれたところまでは同じなのですが、「大山が受けた」というところが違う、と言います。

 司馬さんによると、フェントンは大山に言ったのではなく、接待役の「原田宗助」という人に言ったらしいです。

 彼はあわてて上司にきくべく、会議中であった藩の川村純義(すみよし)を呼び出すと、川村は急に怒り出し、

「歌ぐらいのことで相談するな、万事をまかすということでお前たちを接待役にしたのではないか」

と怒鳴って会議に戻ってしまった。

 川村はのちの海軍卿になった人です。大山出てきません。続けます。

 原田宗助は青くなっただろう。戻って同役に相談した。この同役が乙骨太郎乙(おつこつたろういつ)である。

 乙骨太郎乙、おつこつたろういつ、すごい名前です。すぐ覚えました。大山出てきません。続けます。

 乙骨は旧幕臣だけに大奥のしきたりを多少知っており、こういうのはどうか、と言い、歌詞を口ずさんでみた。原田は大いに驚き、「その歌詞ならわしの国の琵琶歌の中にもある」と賛成し、フェントンを呼び、原田自らそれを琵琶歌のふしでうたってみせた。フェントンはこの奇態なふしまわしに驚いたらしいが、手直しをした。

 原田が乙骨に聞き、それをフェントンに歌って聞かせ、フェントンが手直しして完成した、というのです。大山出てきません。

 司馬自身も、(ウィキにあるように)大山説が通説となっていると言っています。でも、モトのモトは前述の話らしい、と。原田と乙骨、なるほど。

 司馬さんは、この原田と乙骨説をあげ、この歌がきっちり作られたわけではなく、

・部下が上司に一喝されて生まれた歌であるところ

・もともと徳川大奥の儀式を乙骨が思い出して提案した歌なのに、「君が代起源説」の  通説は、徳川を倒した官軍の大山説となっているところ

 これが不思議で、暗示的だ、と言っています。そうですよね。百年後、大きな話題になり法律で定められることになるとは、大山さんはもちろん、原田さんも乙骨さんも予想していなかったことでしょう。

 ちなみに、冒頭の内田樹さんは、この歌の旋律については、「どうしてこんな旋律になったのか経緯を教えてもらえば、「なるほど、そういうものか」と納得します」と述べていますが、実際にフェントンに歌って聞かせた原田さんは、フェントンが作った君が代を聞いて「おれのうたったふしとはだいぶちがっている」と言ったとのこと。内田さんは、この旋律の経緯をどこで誰に聞いたのでしょう。

 私は情報に受け身でして、こういう話を読んでも、「乙骨太郎乙乙骨太郎乙」と念仏のように唱えて喜ぶ程度で終わります。このような情報を耳にしたとき、きっとクリエイティブな人は、「今は、何の疑問もなく普及しているけれど、その中には、将来その目的や方法が根本から問い返さざるをえないモノがあるのじゃないか」と考えるのでしょう。

 何だろうなあ、きっとこういうところにビジネスチャンスがあるのでしょうが、ちっとも思い浮かばない。情報には敏感なつもりですが、基本受け身的なところがだめです。ウィンドウズ95の時に、死ぬほど勉強してネットビジネスをものにできていればよかったのに。宅配業界の大改革、これはどうでしょう。だめか。

  

三島由紀夫の自決について、司馬遼太郎が思ったこと

 司馬遼太郎(1923 - 1996)と三島由紀夫(1925 - 1970)、ともに日本を代表する作家です。司馬は多くの歴史小説を通じて「国民作家」と言われるまでになった大作家であり、三島由紀夫ノーベル文学賞候補にもなった作家であり思想家です。

 同年代を生きた作家ですが、この二人はお互いをどのように意識していたのでしょうか。私は司馬作品をよく読みますが、その中には三島さんに関するものがいくつか見られます。また、三島さんの作品の中にも、司馬さんと同じ現象について語ったものが見られます。

yama-mikasa.hatenablog.com

 みなさんご存じのように、三島さんは衝撃的な事件を起こします。もちろんそのことを司馬さんもご存じだったと思いますが、その件についての司馬さんのコメントを読むことができずにいました。昨日、当然その記述に出会えたので、このブログに備忘録的に書き写しておきます。今回は、それのみです。『司馬遼太郎が考えたこと 5』です。長いので、ところどころ略します。

異常な三島事件に接してー文学論的なその死

 三島氏のさんさんたる死に接し、それがあまりになまなましいために、じつをいうと、こういう文章を書く気がおこらない。ただ、この死に接して、かれの死の薄汚れた模倣をする者が出るのではないかということをおそれ、ただそれだけの理由のために書く。

 三島さんの死をこころよく思っていないことがわかります。

 思想というものは、本来大虚構であることをわれわれは知るべきである。現実とかかわりがないというところに思想の栄光がある。

 ところが、思想は現実と結合すべきだというふしぎな考え方がつねにあり、とくに政治思想においてそれが濃厚で、たとえば吉田松陰がそれであった。

 松陰は、自分のゆきつくところが刑死であることを知り抜いてみずからの人生を極度に論理化し、彼自身が覚悟し予想していたがごとく、異常死へゆきついた。みずからの人生と肉体をもって純粋に思想を現実化させようとした思想家は、その純度の高さにおいて松陰以外の人を私は世界史に見出しにくい。

 われわれの日本史は松陰をもったことで、一種の充実があるが、しかしながらそういう類の精神は松陰ひとりでたくさんである。

 かれほど思想家としての結晶度の高い人でさえ、自殺によって自分の思想を完結しようとはおもっていなかった。

 私が松陰という極端な例をここに出したのは、むろん念頭に三島氏を置いてのことである。三島氏ほどの大きな文学者を、日本史は数少なくしか持っていないし、後世あるいは最大の存在とするかもしれない。

 三島さんの作家としての力量に対する最大の賞賛です。

 三島氏の死は、文学論のカテゴリーにのみとどめられるべきもので、太宰とおなじ系列の、ただ異常性がもっとも高いというだけの、そういう位置に確固として位置づけられるべきもので、松陰の死とは別系統にある。

 われわれ大衆は自衛隊員を含めて、きわめて健康であることに感謝したい。この政治論は大衆の政治感覚の前には見事に無力であった。このことは様々の不満があるとはいえ、日本社会の健康さと堅牢さをみごとにあらわすものであろう。

 この社会にはいろいろな問題があるけれど、何人も彼の演説に動かされることがなくてよかった、ということでしょう。

 こういう私の感想は三島氏の美学に対しては極めて無力であり、それが我々の偉大な文学遺産であることを少しも損なうものではない。我々はおそらく二度と出ないかもしれない文学者、三島由紀夫を、このような精神と行動の異常なアクロバットのために突如失ってしまったという悲しみにどう耐えていいのであろう。

 私には、三島さんの死を司馬さんが太宰と同系統の死と捉えていたとは思えないのです。知行一致の精神を、誰よりも高く司馬さんは評価していたはずですから(もちろんその作品の中においてです)。このコメントを読み、今、非常に複雑な思いです。

誰でも書ける!読書感想文の書き方

 読書感想文が嫌いでした。本を読むのは好きなので、夏休みに入る前には毎年読み終わっていたのですが、夏休み最終日になっても、原稿用紙は白いまま。毎年でした。

 あれから30年たちましたが、世の中には読書感想文という悪習がいまだに残っていて、私の息子も当時の私と同じ状況に陥っています。と言っても、彼は本も読まずに夏休み最終日、白い原稿用紙の前に座っているので、私とは少し違いますが。

 小学生に読書感想文を強制することは、百害あって一利なし、と私は思います。読むのと書くのは別ですからね。「本好きにしたい、本を読ませたい、読書感想文を宿題にしたら、読まざるを得ないだろう」こういう発想でしょうが、これでは、読書感想文から解放されたら本を手に取ることはなくなると思います。

 とにかく、読んでいない息子に読書感想文を書かせるためにはどうしたらいいか。二人でネットで「楽に感想文が書ける方法」を検索しました。すると、私たちのように、読書感想文に困っている人がたくさんいることを知りました。出てくる出てくる、たくさん出てきます。

 今日は、その中でも一番だったものを紹介します。あきれるほどに素晴らしいです。

 『必ず書ける あなうめ読書感想文』

 小学生向けであるこの本は、そのタイトルのとおり、空欄に適当な言葉を入れて感想文を完成させるという、とんでもないシロモノです。

 こんな感じです。

(①     )を読んで

(②     )は、なんて

(③                              )

だろう。これが、読み終えたときに、最初に感じたことです。まさか、

(④                              ) 

とは思ってもいませんでした。

 基本的に、こんな感じです。最初の空欄①には本の名前を入れます。「うさぎとかめ」を例にしています。

 次の空欄②には、登場人物を入れます。「うさぎ」とします。

 三番目の空欄⓷には、②の人物について思ったことを書きます。例としては「ばかなことをしてしまった」と書きます。

 四番目の空欄④には、②の人物がした行動を書きます。「競走の途中で寝てしまう」という感じです。

 ここまでをまとめると、こういう感じになります。

 

『うさぎとかめ』を読んで

「うさぎは、なんてばかなことをしてしまったんだろう」

 これが、読み終えたときに、最初に感じたことです。まさか、競走の途中で寝てしまうとは思ってもいませんでした。

 

 なるほど、上々の滑り出しです。

この方法にしたがえばいくらでも書ける、として

「(ももたろう)は、なんて「ゆうかん」なんだろう」

「(メロス)は、なんて「ともだち思い」なんだろう」

「(アリババ)は、なんて「運がいい」んだろう」

このような応用例を上げています。

 この監修者は、なんて恐ろしい方法を思いついてしまったのでしょう。この方、教師のようです。まさか、現場の教師が、空欄を埋めるだけで感想文が書けるなどという安易な方法を推奨するとは、思ってもいませんでした。

 こういう穴埋めになれてしまった小学生が、中、高、大学と進むかと思うと、恐ろしくなります。こういったパターンを使って、目前に迫った課題をとりあえず提出する。その時は便利でしょうが、あとで困ることになるのでは?

 少なくとも、これでは自分の文体が形成されません。パターンになれてしまうと、それを訂正することが難しくなります。「大人になったら自分で書けるようになるだろう」と考えるのは大間違いです。借り物の文体で、生涯下手でワンパターンな文章を書いていくことになりかねません。

 しかし、背に腹は代えられません。結局私たち二人は、この方法を採用し感想文を書き上げることができました。文句を言うなら使うな、と怒られそうです。

他者の評価を仕事の目的にしてはいけません

 仕事に対する不満がたまっていた時期がありました。こんなはずじゃなかった、もっとやりがいのある仕事だと思っていた、そういう些末なものです。この思いにずいぶん苦しめられましたが、ある本を読み少し気が楽になりました。内田樹さんの「下流志向」という本です。

 「仕事とはつまらないものである。つまらないけれど、みんなが働かないと社会が成り立たなくから、国民の義務になっている」

 「快」「不快」、「幸せ」「不幸せ」、これらは他者との比較によってそれが鮮明になります。皆が楽しそうにしていたら、自分の負の感情がますますふくれあがるものですが、皆がつまらないのであればそう落ち込むことはありません。多くの人にとってつまらないものなのだ、しかしやるのだ、と腹をくくって目の前の仕事に取り組むようになりました。

 また、最近、新聞でこんな投稿を目にして気持ちが洗われる思いがしました。

「労働は自分のためじゃなく」

 人間はどうして労働するのか。それは私たちには与えながら生きていかなければならない義務があり、また隣人として支え合って生きるためではないだろうか。

 私は私が生きていくために必要なものを、親が苦労して働いた分の給料から分け与えてもらっている。だから、今度は自分が与える番なのだ。(略)経済力のある人は、経済力がない人を支えていかなければならない。我が子を育てるためには親は一生懸命働ならないが、それでも足りないならばその親を私たちが支えよう。

 私たちは自分が苦労して、得たものを隣人に与え、また隣人と支え合いながら生きている。こんな人生ならばどんなに素晴らしいだろう。労働は自分のためだとは思わない方がずっといい。

 19歳の短大生の投稿です。自己責任論が根をはってしまったこの日本で、このような考えをもつ短大生がいることに驚きました。

  前置きが長くなりました。今回はここからです。その投稿を見てこのブログを書いた後、この投稿に対して別の読者からの投稿が新聞の声欄に掲載されました。朝日新聞4月19日の朝刊です。投稿者は29歳の会社員です。

『我が喜びになってこそ「労働」』

 今春に就職された方々、滑り出しはいかがですか。「労働は自分のためじゃなく」(9日)を読みました。「私たちには与えながら生きていかなければならない義務があり」と記されていました。

 私は、労働は「他者の役に立ち喜んでもらうことで、自分も幸せになる」ことだと考えてます。労働は単に義務なのではなく、人に喜んでもらいたいという希望でもあり、自らの意志だと思うのです。

 労働が苦しいこともありますが、その成果を受け取る人の喜びにつながると感じられれば、受け止め方は違ってきます。

 一方で、いくら相手が喜んでも、労働が自分にとって苦労ばかりのものであってはならない、とも思います。相手も、労働の成果を受け取る自分が喜ぶことで、働いた人も報われ、うれしく感じてほしいと願っているでしょう。

 ですから、投稿者の「労働は自分のためではない」という思いは私にもありますが、「他者のためだけでもない」と思います。働く人も、その成果を受け取る人も、共に喜べる労働を求めてはいかがでしょうか。

 なるほど。一言でまとめると、「他者からの評価が仕事の喜びになる」ということでしょうか。

「いくら相手が喜んでも、労働が自分にとって苦労ばかりのものであってはならない、とも思います。相手も、労働の成果を受け取る自分が喜ぶことで、働いた人も報われ、うれしく感じてほしいと願っているでしょう

 ここです。「これだけのことをやったのだから、それに見合うだけの評価を相手はしてくれる」という見返りを労働の喜びとする限り、その労働者が報われる瞬間はそうそう訪れないでしょう。

 自分が1のことをしたら、1返ってくるどころか、0.1返ってきたら「おんのじ」です。ところが見返りを求めると、1のことをしたら1以上を求めてしまいがちです。見返りの期待が膨らみ続け、そして期待通りの見返りが来ることはおそらくありません。

 仕事のやりがいが他者からの評価によって生まれる、こういうことはあります。しかし、最初からそれを期待するのはよくない、と言いたいのです。これが私の仕事である、義務である、やるのである、と決意し、懸命に汗を流す。見返りなどを求めずに、日々真摯に仕事をこなす。その地道な仕事ぶりを周囲が評価し、その評価がその人に思いがけない形で届く、そういうものです。見返りを求めているうちは手に入らない、見返りはそれを放棄し続けた結果、後からついてくるものです。

 先の短大生には、その文章から、真摯さや強さ、仕事への覚悟が備わっていることがわかります。この子は誠実に仕事に取組み、おそらくそう遠くない将来、周囲からの評価により仕事にやりがいをもつことができると思います。

 「がんばれば他者から評価されるよ」という27歳の投稿者の台詞は、この子にとって不要です。余計なことを前途ある若者に言ってはいけません。知らない方がよいことが世の中にはあるのです。「美女と野獣」という映画があるでしょう。周囲の人は美女に、「野獣と恋に落ちてキスしたら、野獣はハンサムな男性に戻るんだよ」と言いません。女性も、そんなこと知らずに、野獣を野獣として好きになります。他者の評価を期待して仕事をするのは、野獣がハンサムな男性に戻ることを期待して、美女が野獣と接するようなものです。

「友達以上不倫未満」ってなんなんだ  恋に憧れるお母さんへ

 浮気でなく本気、しかし決して男女の関係は持たない−そんな大人のプラトニック・ラブな紺外関係「背感ド・パートナー〉の実態を徹底取材。数々の赤裸々なケースが、男女間の愛と嫉妬の原理をもあぶりだす問題作。

 だそうです。「友達以上不倫未満」秋山謙一郎さんの書。
 「取らない、揉めない、でも離れない――」浮気でなく本気、しかし決して男女の関係は持たない。そんな 大人のプラトニック・ラブ な婚外関係、そういう方々を徹底的に取材してまとめたのが本書です。
 結婚した人以外の方の面影を胸に宿すってところでしょう。不倫に走ってしまう気持ちもわかります。ただ、本書に出てくる人たちは違います。

 「決して男女の関係は持たないで」これが不倫との境界線なのですが、その一線は超えることはないとのこと。それって友達とどう違うのでしょう?読み進めるうちに、うっすら透けて見えました。だんだんわかってきましたよ。
 ようは、自分の今の価値を配偶者が認めてくれない、もしくはもっと認められたい、いや、異性として見られたい!そういうことです。たぶん。いや、きっと。

 自分の人生これで終わりなんて嫌だ。配偶者も子どももいるけれど何か物足りない。その物足りなさというか、虚しさはわかります。でも、それを恋愛(疑似恋愛といったところでしょうか)で埋めようとするところがおかしいのです。

 こういうことをしようとなさっている家庭もちの方々、よくお聞きください。自分の人生に虚しさを感じ、その心の隙間を軽い恋愛で埋めようとなさっているあなたです。恋愛したことないんですか?今の奥さんや旦那さんとは恋愛しないで結婚したんですか?恋愛が人生を変えるなんていう中学生みたいな妄想を、いまだに持っているのですか?休日におしゃれして食事や映画に出かけ、日帰り旅行する程度の相手を欲しているんですよね。そんなことを考えている人、すぐにもってかれますよ。え?何をもってかれるかって?心をですよ。

 恋愛とはもっと自我に食い込む戦いです。欲望やエゴイズムむき出しの、食ったり食われたりの関係です。どちらかが食われるわけです。そして、食われるのはいい年して恋愛したいと思っているあなたなんです。食われたらどうなるかわかりますか?向こうはそれこそあなたのことなど何も考えずに、友達だと思って過ごすでしょう。でもね、あなたは違います。子どもとご飯を食べているときも、ご主人に抱かれているときも、あなたの頭の中にはつねにその人がいます。ラインが既読にならないと、そして返信が返ってこないといてもたってもいられません。夜眠れなくなり、ご主人やお子さんが目に入らなくなり、その男に泣きつくことになるでしょう。

 岡本太郎がこんなこと言ってます。「いつでも愛はどちらかが深く切ない」。その通りです。そんな食ったり食われたりの関係を、今になって味わいたいのですか?

 どうしてもそういう関係をもちたいというのなら、あなたが女性なら簡単です。本当に簡単。自分から動き出せばいいのです。断られてもめげずに次、また次と声をかければ出会えます。10人くらいを目安に声をかけてみてください。お付き合いしたければ(お付き合いじゃなかったですね)まめでなくては。男はちょろいですよ。未婚じゃなくてもいいんですよね。かえって既婚男性の方がナンバー2以下でいられて安心です。それに、既婚男性なら、あなたの見た目とは釣り合わない男をキープすることだって夢ではありません。恋に恋する年齢はとっくに過ぎているのだから、妄想に浸っているヒマがあったら、行動に移すことですね。

 虚しさというより「さびしさ」でしょう。そのさびしさは、誰の胸の中にもきっとあります。私にもあなたにもあなたのご主人にも、あなたのお子さんにも。そこに思いを馳せ、ご家族との日々を磨き上げる生き方を選んでいる人の方が、一瞬の恋に浮かれている人(恋にあこがれているでも可)よりも、よほど魅力的ですし、刺激的ですし、エロティックです。エロティック、これ、最大のほめ言葉です。

yama-mikasa.hatenablog.com

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